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2005年5月 7日 (土)

「南海ホークスがあったころ」の藤井寺球場

近鉄パールズの設立は昭和24年。藤井寺球場は。。。なんと、昭和3年完成。近鉄球団より20年以上も前につくられています。敷地は1万8千坪。内野スタンドが3万人、外野芝生席が1万3千人収容。しかし、総収容人員は7万人とうたわれていたとのこと。サバ読みの歴史はこのころからあったようです。

藤井寺球場は野球場のある住宅地として大阪鉄道(現近畿日本鉄道)が藤井寺花苑都市の名で郊外開発の一環として建設。全体を構想したのは大屋霊城。大正から昭和初期にかけて公園緑地の必要性を説いた造園学のパイオニアで、大正13年開業の甲子園もこの人が手がけたモノです。野球場の南には教材園と名付けられた広大な遊園地(2万2千坪)があり、果樹園や動植物園をつくり、都会の子供たちが自然と親しむための体験学習の場としていました。しかし、この教材園は昭和8年、わずか4年という短命で電鉄本社の経営状態の悪化を理由に廃止。跡地は学校用地として売却されました。球場も70年あまりの歳月をへだてて同じ運命をたどるのでしょうか?甲子園球場が現役バリバリというのに悲しすぎます。

私は、藤井寺では通算で10試合程度しかみたことがないですが、その中で印象深いのは、オリックスがリーグ優勝した平成7年8月26日。佐藤義則投手が40歳を超える史上最年長でノーヒットノーランを達成した試合です。達成の瞬間というより、9回裏の近鉄の攻撃がはじまってから、球場全体がざわざわしていた雰囲気が未だに頭にこびりついています。1回からやじりっぱなしだったどこかの?おっさんも、9回裏2死となった時点で「もうええわ!年寄りに花もたせてやれよ。。。」と萎えてしまい、達成した時点で拍手をしてました。

大阪市民球団の設立に大阪市の協力が得られないのなら。。。最後の手段は藤井寺球場を買い取ってホーム球場にしましょうか。

※藤井寺球場の歴史については、下記の本からの抜粋です。
「南海ホークスがあったころ」野球ファンとパリーグの文化史
本の紹介
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0852.html
著者のHP
http://homepage3.nifty.com/ynagai/hawksreview.htm

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» 【読後感】南海ホークスがあったころ [別冊 社内報]
南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史  永井 良和 ・ 橋爪 紳也 / 紀伊国屋書店 私は、父の影響で幼少の頃から阪神ファンです。 その余波から大阪に関心を持つようになり 大学進学先も大阪を選んだのは先述の通りです。 北海道には無い「私鉄」というものが大阪にはたくさん走っているということに関心を抱き さらにはその私鉄がそれぞれプロ野球球団を持っていることにも興味を持ちました。 北海道が球団を持てるようになったのはごく最近です。 南海ホークスと阪急ブレーブス... [続きを読む]

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