経営の風土学 佐伯勇の生涯
ふらりと古本屋に入ったら表題の本を見つけました。藤井寺球場の歴史の最期を飾る藤井寺市民フェスタの前に引き合わせてくれたのでしょうか。佐伯勇氏と言えば、近鉄「中興の祖」にして、近鉄パールス設立時の初代オーナー。藤井寺球場へも通ったことでしょう。
ところで、本書は、経営書というより、佐伯氏の経営哲学の風土、いいかえれば佐伯氏の人となりが伺える一冊です。著者の神崎宣武氏は民俗学の研究者で近鉄パールス以来の大の近鉄ファン。本書も、千葉茂監督時代の新生近鉄バファローの春のキャンプで見かけた佐伯オーナーがグラウンドを去るときに帽子を右手でつまんで高々と揚げた様子が記憶に鮮やかだったと言う話に始まります。ただし、球団の話は最初だけで、もっぱら経営者としての佐伯氏の横顔、裏顔を紹介している本です。
まず、目にとまったのが、JR以外の私鉄最長路線を誇る近鉄の歴史が合併の歴史だったという点。ある程度はわかっていましたが、改めて並べ立てられると、球団統合もその延長だったのかと思えてしまいます。しかし、佐伯氏が存命だったら、球団統合にYESと言ったでしょうか。。。
大軌~近鉄の歴史
明治43年 奈良軌道創立、同年、大阪電気軌道(通称、大軌)に改称
大正11年 大阪電気軌道が天理軽便鉄道、生駒鋼索鉄道と合併
大正13年 大阪電気軌道が城東電気鉄道と合併
大正13年 大阪電気軌道が東大阪土地建物と合併
昭和3年 大阪電気軌道が長谷鉄道と合併
昭和3年 大阪電気軌道が大軌土地と合併
昭和4年 大阪電気軌道が伊賀電気鉄道と合併
昭和4年 大阪電気軌道が吉野鉄道と合併
昭和2年 姉妹会社の●参宮急行電鉄創立
昭和11年 参宮急行電鉄が●伊勢電気鉄道と合併
昭和15年 参宮急行電鉄が関西急行鉄道と合併
昭和15年 参宮急行電鉄が養老電鉄と合併
昭和16年 大阪電気鉄道が●参宮急行電鉄と合併し、関西急行鉄道と改称
昭和18年 関西急行鉄道が●大阪鉄道と合併
昭和19年 関西急行鉄道が信貴山急行電鉄など3社と合併
昭和19年 関西急行鉄道が●南海鉄道と合併し、近畿日本鉄道と改称
昭和22年 近畿日本鉄道から南海鉄道が分離
昭和38年 近畿日本鉄道が●奈良電気鉄道と合併
昭和39年 近畿日本鉄道が信貴生駒電鉄と合併
昭和40年 近畿日本鉄道が三重電気鉄道と合併
昭和61年 近畿日本鉄道が東大阪生駒電鉄と合併
これら多くの合併のうち、経営上、大きな意味のあった合併(●)は次に示すものです。
伊勢神宮への参拝電車である参宮急行電鉄を姉妹会社として創立(後に合併)したこと、その参宮急行電鉄が伊勢電気鉄道と合併し名古屋進出を果たしたこと、関西急行鉄道時代に大阪鉄道と合併し、阿部野橋-橿原神宮駅間、古市-河内長野間、道明寺-柏原間などの路線を獲得したこと、さらに戦時輸送確保のため企業統制令により南海鉄道と合併(後に分離)し近畿日本鉄道と改称(近畿日本鉄道のHPの会社概要によれば、この時点が近畿日本鉄道の会社設立となっています)したこと、奈良電気鉄道と合併し、京都進出を果たしたこと。
奈良のローカル線からスタートした近鉄にとって、特に悲願だったのが、名古屋と京都への進出。そこには大きな苦労もあったようです。
名古屋への進出を果たしてからしばらくは鉄道軌道の幅の違いから直通運転ができなかったため、いつの日か軌間拡幅工事(ゲージ統一)を行う必要がありました。そこに、昭和34年9月26日(9.26と言えば...)伊勢湾台風が来襲し、名古屋方面の路線を中心に大打撃を受けました。ちょうど、名古屋では揖斐・長良川鉄橋(987m)と木曽川鉄橋(861m)という2つの大型鉄橋の掛替工事(工事費23億円)が終わったばかりの時点での台風被害(被害額25億円)。社内に暗い雰囲気が漂う中で佐伯社長の決断は「いまここで、ゲージ統一の計画を実行しよう」でした。その時の重役会議でのセリフ(抜粋)。
「どうせ電車が止まってるのやから、全線の復旧工事は、一気に広軌にしてやるべし。儂はそう決めた。だから、その方法を考えてくれ。やらんと言う必要はない。どうすればやれるかっちゅう方法を考えろ。一週間、知恵をしぼって考えろ。」
この時点で復旧方法は決めていたが、独断で決めることなく、案を出させた上で、最後は自分で決めたということのようです。佐伯社長の経営信条は「独裁はするが独断はしない」。結局、鉄道の営業中なら夜間工事となり長期間かかったものが、災害でストップした時に一気に仕上げたため、軌間拡幅工事はわずか9日で終了。車両本体のゲージもあわせて拡幅し、大阪-名古屋間の直通特急が開通したことで、台風被害の損害を大きく上回る収益を確保することができたとのこと。
この当時、経理局主計課にいて予算のやりくりをしたのが山口昌紀(現:近畿日本鉄道社長)。また伊勢湾台風の来襲時に海外出張をしていた佐伯社長に同行していたのが田代和(昨年まで大阪近鉄バファローズのオーナー)。随分と苦労したことでしょう。
そして京都への進出を果たすこととなった奈良電気鉄道との合併も苦労話として挙げられています。当時、京都-西大寺間を運行していた奈良電気鉄道の経営が破綻。それぞれ1/3の大株主で、相互乗り入れを行っていた近鉄と京阪のどちらが吸収合併するかで交渉は難航。調停案として丹波橋を境に北は京阪、南は近鉄という案もでたが、佐伯社長は「レールは1本で2つに分けることはできん」と拒否。その間、秘かに奈良電気鉄道の沿線に居住する個人株主から株を買い取り、過半数の株を取得して、結局、近鉄が吸収合併し、京阪所有の奈良電気鉄道株も買い取ることで決着。
この奈良電気鉄道の個人株主からの株の買い取りを担当したのが経理課員の山口昌紀。その後、山口は佐伯社長の秘書を長年勤め上げ、平成15年6月、近畿日本鉄道の社長に就任。そのちょうど1年後にした大仕事が、故佐伯オーナーが立ち上げた近鉄パールス→近鉄バファローズ→大阪近鉄バファローズの息の根を止める球団統合でした。
ところで、佐伯勇氏は関西の私鉄産業が発展する原型をつくった阪急の小林一三氏に畏敬の念を抱いていたようです。佐伯氏の「文化は経済が支える」という考えも、遊園地、OSK、球団を所有していったのもその影響とか。秘書室長だったころの上山善紀氏に「小林さんのやり方に倣ってたら間違いないんや」と漏らしたことがあったそうです。
だからって、オリックスへの球団譲渡まで倣ってしまうことはないのに。。。
平成元年10月5日に永眠した佐伯勇氏に昨年の5月17日に亡くなった鈴木貴久氏。改めて両名のご冥福をお祈りしつつ、藤井寺球場の最期を見取りにいきたいと思います。
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コメント
本当に佐伯氏が存命だったら山口社長たちもこんな暴走できなかったでしょうね。
しかし結局今の近鉄本社の中の佐伯氏の弟子達にはあの佐伯氏の意志を継ぐ者継げる者がいなかったということでしょうか。それが佐伯氏最大の失敗であり無念だったのかもしれませんね。多分墓の中で激怒されているのでは。
それにあの山口社長は経理課出身ですか。だから佐伯氏亡き後あのように冷酷にバッサリ切り捨てれたのかも。
金のことで苦労させられた恨みもあるだろうし。
なにか昨年の騒動の裏がわかるような内容の本でしたね。
投稿: 岐阜県人 | 2005年6月11日 (土) 12時47分
岐阜県人さん、ダブルでコメントを頂き、ありがとうございます。
企業にとって、後継者の育成というのは本当に難しいですね。球団を手放すにしても他にやり方はあっただろうに。。。と思うと悔しくてなりません。
古き良きモノを切り捨てるのも時代の流れ?
そんなこと言わずに、歴史と伝統を大事にして欲しいですね。
投稿: 紅の牛 | 2005年6月12日 (日) 21時24分
あなたやコメントで近鉄山口元社長を叩いてるバカ近鉄ファンはこれを読んで近鉄バファローズを捨てて、バファローズより大事な近鉄社員1万人以上を誰1人首切りせず、リストラせずに守った社員思いの素晴らしい経営者や
近畿日本鉄道株式会社山口昌紀会長の講演を聴いて
http://moriokamasahiro.net/archives/1147
山口社長は近鉄は公益を第一義とし、会社は国家社会の物を経営理念で会社経営してきた
当時1兆以上の負債があって潰れかけの近鉄、近鉄が潰れたら沿線住民が困り、社員1万人以上が路頭に迷う
山口社長はそれを回避するために近鉄バファローズを捨て沿線住民や社員を守った
それに山口社長は佐伯オーナーから「近鉄が経営危機になっても社員の首切りだけはするなと」遺言を言われ、
佐伯オーナーの遺言を忠実に実行してバファローズ捨てて、近鉄社員を誰1人首切りリストラせず、鉄道を守った素晴らしい経営者
近鉄社員の首切りせずに近鉄を再建させた山口元社長を叩いてる近鉄バファローズファンは人間のクズやな
ちなみに近鉄が負債1兆以上作り倒産寸前になったのは近鉄バファローズ合併に反対してた元オーナー上山が近鉄社長時代にバブル経済に乗って儲けようと志摩スペイン村作ったり放漫経営した結果近鉄は1兆の負債ができて球団持てる体力が無くなった
近鉄バファローズ無くなった恨みは山口社長じゃなくてバカ経営者上山を恨め
バカ近鉄バファローズファン
投稿: 近鉄(鉄道)ファン | 2017年12月 9日 (土) 23時22分